生きる目的を考えること
こんにちは。
生きる目的を考えたことは誰しもあると思う。
私も改めてこの問題に真摯に向き合ったのは比較的自分の生活に余裕ができ、国際協力についての情報収集をし始めた去年の夏のことである。
先日レストランで友人と食事をしていると、隣の席の酔っ払ったサラリーマンがこんなことを陽気に語り出した。
「生きる目的ってなんだろうって最近考えるんだよねえ。でも、俺は死ぬことが怖いから生きているんだと思う。本当は死にたいけど、死ぬのが怖いし、今死んだら周りに迷惑がかかるから死ねない」
賛否両論あると思うし、この人ことは何も知らないので意見する立場にもない。
でも、こんな言葉を聞いて私が感じた感情といえば、「虚しさ」であった。
生きたくても生きられない人がいる一方、死にたくても死ねない人がいる。
私も、死にたいと思うことが人生の中であった。でも、今は生きたいと思う。
そう思えているのは、生きていることに感謝を感じられるようになったからだと思う。
この1年で、私は自分の生きる目的を探ってきた。漠然と思っていたのは、自分が幸せになるためが目的なんだろうということ。じゃあ、どうしたら幸せになれるか?せっかく生まれてきたのだから、自分が信じること、喜びを感じることに集中したいと思った。自分の人生を振り返り、人に会い、本を読み、そして生きてみたい世界がみつかった。それは、
「世界中のすべての生きるものが、違いを分かち合い、公平な関係を築きながら共生する世界」。
「違い」は私をわくわくさせる。
そしてそんな違いをわかちあい、共通点がみつかったら大きな喜びを覚える。
理解できなくても、視点が加わるだけで世界が広がり、それがまた大きな喜びとなる。
私が全てを理解し受け入れるような大きな器をもっているわけでもない。でも少なくともそれに喜びを覚えられる自分ができることは、たくさんあると感じた。
そもそも地球に住んでいる以上「共生」しなければならない環境にいる。
そして、環境を犠牲にし、人に迷惑をかけなければ生きていけないと思う。
でもだからといって、好き勝手生きるのは違うと思う。
常に公平さや必要以上の犠牲はなるべくださないような方法を追求し続けていく姿勢は必要であると思う。
特に声を発せられない自然や動物たち。ここからの搾取は見て見ぬ振りはしてはいけないし、搾取の見返りはすでに人類に返ってきている。
だから、私はそんな世界に生きることができるよう有限の命を使いたいと思った。
SDGsの言葉だけひとり歩きしているような日本。持続可能な社会を目指すのはなんでだろう。
私は、生きる喜びをなるべくたくさんの人たち、これから生まれてくる人たちに経験してほしいからだと思う。
自分のことだけ考えれば、多分地球は自分が生きているあいだは存続するし、好き勝手エネルギーを使ってさよならすればいい。というか、今を生きるのに精一杯だから、地球を存続するために何かをする余裕はない。私も正直そんな風に考えたことがあった。そして、自分の心身が病んでいるとそれどころではない。
でも、生きる喜びを感じている今、そして命の儚さやもろさを感じている今、自分が生きていることは奇跡であることに気がついてしまった。自分は生きているようで、実は生かされていることに気がついた。
世界中の人々が自分を幸せにしたら世界は平和になる。だからまず自分が幸せになることに集中すればいい。でももし、その幸せが誰かの幸せの犠牲のもとに成り立っているのであれば?それはみないことにしていいのか。
そして、未来や生まれてくるこどもたちのことは考えなくていいのか。今私たちがこうやって生きていられるのは、昔の人たちが血と涙と汗をながして、命をかけてくれたからじゃないのか?
気がついたから、感謝できるようになった。ときに自分のことで精いっぱいになったとしても、また立ち直って、この生きる喜びをもっと多くの人に経験してもらうべく、地球の未来について考え、行動していこうと考えられるようになった。
生きる目的はなに?って聞かれて、「私はねぇ!」ってキラキラしながら語り合えたら素敵じゃない?
変わるかもしれないし、立ち止まるかもしれないし、目的を見失うかもしれない。
目的がないといけないとは言わない。でも、目的を自分なりに見つけた今、感じている感情としては、日々に感謝できるようになり、充実感があり、命をまっとうしていて生きる実感があること。これも生きている間の特権である。
だから、何歳になっても遅くない。タイミングが来たら生きる目的を深掘りしてみるのもいいと思う。同じ日常がきっと違って見えてくる。
今日も感謝して生きよう。