生きる目的を考えること
こんにちは。
生きる目的を考えたことは誰しもあると思う。
私も改めてこの問題に真摯に向き合ったのは比較的自分の生活に余裕ができ、国際協力についての情報収集をし始めた去年の夏のことである。
先日レストランで友人と食事をしていると、隣の席の酔っ払ったサラリーマンがこんなことを陽気に語り出した。
「生きる目的ってなんだろうって最近考えるんだよねえ。でも、俺は死ぬことが怖いから生きているんだと思う。本当は死にたいけど、死ぬのが怖いし、今死んだら周りに迷惑がかかるから死ねない」
賛否両論あると思うし、この人ことは何も知らないので意見する立場にもない。
でも、こんな言葉を聞いて私が感じた感情といえば、「虚しさ」であった。
生きたくても生きられない人がいる一方、死にたくても死ねない人がいる。
私も、死にたいと思うことが人生の中であった。でも、今は生きたいと思う。
そう思えているのは、生きていることに感謝を感じられるようになったからだと思う。
この1年で、私は自分の生きる目的を探ってきた。漠然と思っていたのは、自分が幸せになるためが目的なんだろうということ。じゃあ、どうしたら幸せになれるか?せっかく生まれてきたのだから、自分が信じること、喜びを感じることに集中したいと思った。自分の人生を振り返り、人に会い、本を読み、そして生きてみたい世界がみつかった。それは、
「世界中のすべての生きるものが、違いを分かち合い、公平な関係を築きながら共生する世界」。
「違い」は私をわくわくさせる。
そしてそんな違いをわかちあい、共通点がみつかったら大きな喜びを覚える。
理解できなくても、視点が加わるだけで世界が広がり、それがまた大きな喜びとなる。
私が全てを理解し受け入れるような大きな器をもっているわけでもない。でも少なくともそれに喜びを覚えられる自分ができることは、たくさんあると感じた。
そもそも地球に住んでいる以上「共生」しなければならない環境にいる。
そして、環境を犠牲にし、人に迷惑をかけなければ生きていけないと思う。
でもだからといって、好き勝手生きるのは違うと思う。
常に公平さや必要以上の犠牲はなるべくださないような方法を追求し続けていく姿勢は必要であると思う。
特に声を発せられない自然や動物たち。ここからの搾取は見て見ぬ振りはしてはいけないし、搾取の見返りはすでに人類に返ってきている。
だから、私はそんな世界に生きることができるよう有限の命を使いたいと思った。
SDGsの言葉だけひとり歩きしているような日本。持続可能な社会を目指すのはなんでだろう。
私は、生きる喜びをなるべくたくさんの人たち、これから生まれてくる人たちに経験してほしいからだと思う。
自分のことだけ考えれば、多分地球は自分が生きているあいだは存続するし、好き勝手エネルギーを使ってさよならすればいい。というか、今を生きるのに精一杯だから、地球を存続するために何かをする余裕はない。私も正直そんな風に考えたことがあった。そして、自分の心身が病んでいるとそれどころではない。
でも、生きる喜びを感じている今、そして命の儚さやもろさを感じている今、自分が生きていることは奇跡であることに気がついてしまった。自分は生きているようで、実は生かされていることに気がついた。
世界中の人々が自分を幸せにしたら世界は平和になる。だからまず自分が幸せになることに集中すればいい。でももし、その幸せが誰かの幸せの犠牲のもとに成り立っているのであれば?それはみないことにしていいのか。
そして、未来や生まれてくるこどもたちのことは考えなくていいのか。今私たちがこうやって生きていられるのは、昔の人たちが血と涙と汗をながして、命をかけてくれたからじゃないのか?
気がついたから、感謝できるようになった。ときに自分のことで精いっぱいになったとしても、また立ち直って、この生きる喜びをもっと多くの人に経験してもらうべく、地球の未来について考え、行動していこうと考えられるようになった。
生きる目的はなに?って聞かれて、「私はねぇ!」ってキラキラしながら語り合えたら素敵じゃない?
変わるかもしれないし、立ち止まるかもしれないし、目的を見失うかもしれない。
目的がないといけないとは言わない。でも、目的を自分なりに見つけた今、感じている感情としては、日々に感謝できるようになり、充実感があり、命をまっとうしていて生きる実感があること。これも生きている間の特権である。
だから、何歳になっても遅くない。タイミングが来たら生きる目的を深掘りしてみるのもいいと思う。同じ日常がきっと違って見えてくる。
今日も感謝して生きよう。
私が青年海外協力隊を見送った理由
こんにちは。
JOCVの応募が始まり1ヶ月が経とうとしている。
私はといえば、今回の応募は見送ることにした。
一番の理由は、本当にやりたいことじゃないから。
3年の技術で応募できる、早く現場経験を積みたいけどお金が、時間がないからJOCVへの応募を考えていた。語学の習得もできる。
でも、その1カ国に2年を捧げたいかと聞かれたらそうではなかった。
そもそも途上国にでるという目的は「現地の人の本音を聞くため」である。そこは変わらない。
2年で一つの国と信頼関係をどこまで築けるのかはその人次第である。その国のエキスパートになれるかもしれない。
でも、私は同じ2年という月日を
なるべく多くの国へ訪れて、その地域の深いニーズを世界全体の問題とつなげる。
英語で世界の問題を議論できるレベルにもっていく。
自分のやりたいことで持続的に社会貢献をする方法をみつけ、実践する準備ができる。
に、費やしたいと思った。
大きな理由は2つある。
一つ目は、自国の問題を持続的に解決することは自国がすることであるからである。
兼ねてから国際協力に興味があり、外ばかりに目を向けてきた。
日本の問題には疎くなるばかりであった。
でも、外へ目を向けていると、自国の問題に目を向けざるを得なくなる。
「支援」のあり方を学ぶと、大抵行きつくところは自国の問題は自国で解決すること。
その国や地域の複雑な文化や事情はそこに暮らしているひとたちが一番わかっているのだから、細かい事情を知らない外の人間はヒントは与えられるかもしれないが、解決は自分たちでなきゃできない。
日本にも問題は山積みであり、それを解決できるのは、解決しなければいけないのは紛れもなく日本人である。
国際協力が発揮される場面は例えば、自国だけで議論が煮詰まってしまったら、海外のいい教訓を取り入れる、とか。国が国として成立していなければ、国がスタート地点にたてるようにソフト・ハードの援助をする、とか。どの国も前に進めるように互いの長所や短所を共有していくことが国際協力なのではないだろうか、と思った。
世界を舞台にしたときに、日本の問題はどうなってるの?何か行動はしているの?といわれるのは分かりきっており、知らない、とくになにもしていない、と答えるのは情けないと思った。
二つ目は、自分と自分の身の回りを固めて、自らの自立・自律を優先させようと思ったからである。
自分を幸せにできるのは自分だけである。自分の幸せを他人に依存してはいけない。だから、自分を知り、どんなときも健康を維持できるような習慣を確立させる。
長期的な目標だが、価値を生み出し、自らの力で経済的に自立できるように知識の収集と技術の獲得をしていく。
そして、自分の身近な人たちを大切にする。
恥ずかしいことに、心と体を自分で管理できないまま、貯金はギリギリ。
女性のエンパワメントをしたくて助産師になったわけだが、まずは自分が自立・自律して輝いていなければそんなことは不可能である。
このまま跳んでしまっては自らを苦しめる可能性は高く、そして迷惑きわまりないと思った。
これは自分の準備不足であるが、現実なのでそこに向き合うことを優先するのみだと考える。
だから、まずは日本に留まり、持続的な健康管理と経済的な自立を確立させていく。
日本の地域や世界の国々に赴き、直接地域の人たちと関わり、なるべく少ないフィルターを通して現状を把握する。日本や世界を捉え直し、問題解決のヒントを得る。
そして、どの問題にどの程度コミットするかを決断し、実行に移していく。
世界規模の情報収集、分析、対等な議論をするためにそのレベルの英語を話せる。
を、向こう3年でやりたいことであると今は思っている。
小学生の頃からの夢だったから、正直未練はあるし、また未来の選択肢として捨てたわけではない。必要となった時にチャレンジしようと考えている。
大きな方向転換だし、目の前にして怖じけずいたのかといわれるかもしれない。
確かに目の前に迫ったからこそ、本気で本当にいいのか?を考えることにつながった。
募集要項をみるとわくわくするのと同時に、まだ納得しきれないなにかがあった。
今までそれしかないと思っていたけど、ある人に「本当にやりたいことはなに?」と聞かれて、口に出してみたら、見えてきた世界があった。
何が正解なんてないし、決断したらあとは進むだけであり、絶対に得るものはある。
でも、違和感を感じたら、なんとか正当化しようとするのではなく、丁寧に向き合うことも必要だと感じた。違和感を感じたまま進むことは難しい。
アルベルト・シュヴァイツァーの言葉に「まず考え、それから行動せよ」という言葉がある。
偉い人がいっているし…ではなく、自分の性に合っている。
この1年で学んだことは、国際協力は知らないまま飛び込むことじゃない。準備はしてもしても終わらないと思うけど少なくとも今ではないと感じた。
憧れだけではなかったけど、憧れていた青年海外協力隊。いつか、そのときがきたら。
助産学校受験について
こんにちは。
最近、知り合いの後輩やツイッターなどで助産学校を受験する方から連絡をもらうことが多く、自身の経験をみなさんに共有することで、少しでも助けになれればと思い今回の投稿に至りました。
私が受験したのは今から3年前の2015年になります。
受験したのは大学の助産専攻科です。
今回は取り急ぎ、受験スケジュールの立て方、助産学専攻科の個人的な受験勉強法と面接攻略法について書こうと思います。
まだ受験が先の方や、時間がある方向けの総論的な話や、看護学生1年から3年まではどんなことをしておいたらよいかなどはまたニーズがあれば。
以下の目次で紹介していきたいと思います。
1 受験スケジュールの立て方
2 各受験科目の勉強法
3 面接攻略法
4 就活について
1 受験スケージュールの立て方
予算や実習・授業との兼ね合いもあると思いますが、やはり倍率が高いため、数をうっていこうというのが私のスタンスでした。
このスケジュールを立てるというプロセスは、無理のない計画を立てることで、効率よく、1校1校の受験を確実にものにするために必要なプロセスとなります。
⑴受験校の条件をしぼる (看護学生4年の7月)
まずは、条件を自分なりにしぼって、受験校を決めました。
私の条件としては
・関東(できれば都内)か地元→都内は学会やセミナー、就活がしやすい。地元は実家から通えば家賃がかからない。
・大学の専攻科1年→質の高い授業を受けたかった、研究も少しかじりたかった。
・受験科目がなるべく同じ学校→その学校のみに特化した受験科目はほかに応用が効かないから。
・受験が8月から10月前半にある→残りを国試の勉強や研究に費やしたかった
これで、だいたい5校くらいにしぼりました。そしてすぐに資料をとりよせる。
ですが、5校受けたとしても受かるという保証はありません。
全国の助産学校の情報はざっと把握し、その中でもめぼしいところの資料は取り寄せておきました。
あとは、自分のやりたいことや学びたいことがカリキュラムにあるか、学校の理念に共感できるものがあるかなどから志望順位をつけました。
⑵カレンダーにスケジュールを記入
取り寄せた資料(募集要項やパンフレット)とホームページでの最新情報から、以下の項目をカレンダーに記入しました。
①願書提出期間
②受験日
③合格発表日
④入学金振込期限日(記載されていれば)
これを書くと、おのずとスケジュール的に受験できる学校と、残された勉強期間が明らかになります。また、合格した場合、合格発表からだいたい2週間から1ヶ月以内に入学金の振込があります。入学金の支払いをもって入学することが決定します。
つまり、以下のようなケースがある可能性があります。
本命:A校、2番手:B校
スケジュールが
B校合格発表→B校入学金支払期限→A校合格発表
の順の日程だと、A校不合格になる可能性を考えB校の入学金振り込まないといけない
もちろん、A校に合格する自信があったり、予算に問題がある場合はこの限りではありません。
よって、⑴で絞ったとしても、スケジュールをたてると受験校を再検討する必要性もみえてくるかもしれません。
また、予算の問題としては、受験代、交通費、前泊が必要な場合は宿泊費が必要なため、その面も踏まえて無理のないよう計画しましょう。
また、私の友人は全国どこでも受験する覚悟でいたのでほとんど全ての資料をとりよせていました。
私の受験スケジュールは以下のようになりました。
9月第1土曜A校→不合格
9月第2土曜B校→補欠合格
9月第4土曜C校→不合格(本命)
10月第2日曜D校→合格
9月第3土曜も別の学校の受験を考えましたが、C校が本命で、受験科目もC校は小児が増えるため受験はやめました。
2 各受験科目の勉強法
私が受験した学校は全部で4校でした。
A校:母性、新生児
B校:母性
C校:母性、小児
D校:母性、小児、看護一般
全て面接あり。
勉強スケジュール的には、
受験校 A校 B校 C校 D校
母性 →
小児 Start→
看護一般 Start →
こんな感じです。
基本的にその週に受ける科目のみ勉強しました。
D校の受験は受験1週間前に受験を決意したため、母性や小児の勉強はほとんどせず看護一般のみ1週間勉強しました。
⑴母性
使った教材は、
・看護国試のレビューブック
・母性の教科書(総論・各論)
・母性実習予習テキスト
まずは、国試のレビューブックの母性分野の赤文字は全て完璧にしました。
そして、教科書でより詳しく勉強。レビューブックにメモを残しました。
ライティング できるように母性実習予習テキストで、定義やアセスメントを書く練習をしました。
レビューブックと教科書でインプット、母性実習予習テキストでアウトプットという感じです。
4校受験し、助産の教科書やレビューブックを使用した勉強は余裕がある人のみ、または母性が完璧だと思えたらすればいいと思いました。あくまでも受験科目は「助産」ではなく「母性」ですから、母性の基本的な知識を求められます。
参考までに、ライティングとしては以下のような問いがあったように思います。
・月経がおこるまでのホルモン動態について述べよ
・新生児の生理的体重減少が起こる理由を述べよ
・新生児黄疸が起こる理由を述べよ
(思い出したら追加していきますね)
⑵小児
使った教材は、看護国試のレビューブックのみ。赤文字を暗記しました。
小児はとても範囲が広いため、基本的なことだけおさえられれば良いと思います。
とくに、ワクチンについて感染症についてなど、母性と関係ある分野を問われました。
⑶看護一般
看護国試のレビューブックの成人分野、基礎看護分野の赤文字の暗記。
看護国試のQBの必修
D校の受験科目で、はっきりいって膨大すぎるので、上記中心に勉強しました。
解剖、心電図、介護保険、母子保健の法律、アレルギー、免疫機能については勉強しておいてよかったと思います。
その他勉強法として、
学校によっては過去問を開示するところ、取り寄せができるところがあります。
友人は、取り寄せられるものは受験校でなくても取り寄せて、傾向対策をしていました。実際こんなことを聞かれるんだということがよくわかったといいます。
自分の勉強法では不十分かもしれない、もっとこの部分を強くしないといけない、という感覚がわかると思うので、おすすめです。
3 面接攻略法
面接も受験科目のとても重要な部分をしめます。しっかり準備が必要です。
ポイントは、
・端的に、一番伝えたいことをはっきりさせること。
・情熱を持って、誠意を持って答えること。
・考えたいときは、少し考えさせてくださいと伝える。すぐにわからないとは言わない。
・質問に対する答えをいうこと。(あたりまえだけど、話しているうちに論点がずれることがある)
⑴志望理由
やはり、確固として言えなければならないのは、
なぜ、その学校を選んだか、つまり志望理由。
この学校でなければならない理由があれば強いですよね。
もちろん、同じ助産学生の仲間には「学費が安いからです」で合格した子もいましたが笑 私はリスクが高いことはいいたくないので、以下のことを踏まえて練習しました。
・学校のかかげる理念、育成する助産師像と共感するものがある→自分の考えや体験をもとにこんな助産師になりたい、貴学ならそのような助産師になるための基盤を学べると思った、など
・学びたいカリキュラムがある、学びたい先生、教授がいる、または興味のある研究の教授がいる
この辺を考えれば、同じ助産学校の中でもこの学校じゃなきゃいけない理由がしぼりやすいです。
⑵なぜ助産師になろうと思ったか
→端的にありのままを答える
⑶困難をどのように乗り越えたか
→助産学校は脱落者がでるくらい大変な毎日を送ることになるため、困難を乗り越えられそうかどうかをみられる
⑷健康で気をつけていることはなにか
→⑶に同じ
⑸筆記試験はどうだったか
→自分を客観的に評価できるか
⑹自分のどこが助産師に向いていると思うか
→アピールポイント
⑺自分の長所・短所
→長所はどう生かすか、短所はどう克服するか
⑻学校では〇〇の分野が不得意だったみたいだが、それはなぜか(成績表をもとに)
→例えば勉強をさぼりましたはもちろんNG(それが本当の理由だとしても)。
自分の勉強方法のどこに不備があったかなど明確に言えるとよい。
⑼現在の看護学校で助産専攻からはずれてしまった理由を自分はどう考えているか
→個人的に一番きつかった質問。これも客観的に分析して答える。
⑽部活やバイトで学んだこと
→看護学生としての成長以外の一面をアピール
願書に書いたことや成績証明書をもとに聞かれることが多いため、願書にかいたことや成績証明書をみて、どこがつっこまれてもいいように準備しましょう。
私は聞かれそうな質問にたいする答えのテンプレをつくり、声に出して練習。時には、友人の前で練習しました。
4 就活について
受験をしていて、ストレスだったのが、就活をしていなかったことでした。
全部落ちたら就職先がないかもしれないからです。
落ちたとしても、働くことができる、といった保証があればまだストレスが軽減されたかもしれません。
もちろん、自分にプレッシャーをあえてかけたいなら就活しなくてもいいかもしれません。就活は時間もとられるし、内定をもらっていても助産師学校に合格したら電話なり、手紙を出したりして内定を取り消さないといけないことになります。
病院によっては、助産学校に合格したら進学しますという事情をわかってくれるところもあります。インターンで事前に聞いておくといいかもしれません。
以上、私の受験攻略法でした。
あくまで、個人的な勉強方法であり、3年前のことなので受験科目や傾向に変化がある可能性は十分あります。
私はお金がなかったので、助産学校受験専門のアカデミーには通いませんでしたが、上記の方法で4校目にしてやっと合格できました。
狭き門であるうえに、情報もすくない助産師学校の受験。
自分が苦労した分、少しでもお役に立てればと思います。
バリ島で出会った神さま
こんにちは。
先日は夏休みでバリ島旅行へ。
最近はアグン山の火山噴火があったが、今は落ち着いている。
最近私はプライベートで瞑想やヨガをかじっており、ヒンズー教やアーユルヴェーダといったインドの伝統医学にも興味があった。
今回のバリが初めてのヒンズー教圏への渡航となったため、私の中ではとてもタイムリーで楽しみにしていた。
今回タイトルにもあるよう、たくさんの方との出逢いがあったが、その中でも二日目にカーチャーターをしてくれたムーさん(偽名)との出逢いが私の人生においてインパクトのあるものだったので、書き留めておこうと思った。
私は、最近自分がどのように生きたいか、どんな目的をもって生きたいかを書籍を中心に個人的に探っているが、今回は初めてこんな風に生きたいという人に会えた。
ムーさんとの出逢いはひょんなことから。
普通、チャーターカーを予約するのはその会社に連絡するが、私の場合はたまたま1ヶ月前に行った都内のバリ式スパのオーナーさんの紹介だった。
とても親切なオーナーさんで、私は実は財布を忘れすぐに支払いができなかったのにもかかわらず、バリ旅行についてなんでも相談にのってくれた。
旅行までムーさんとはラインで打ち合わせをし(日本語がとても上手)、バリ2日目に初めてご対面。
その日はウブドというバリ島の中心部に位置する高地の、山やライステラス(棚田)といった自然に囲まれた街への観光だった。
笑顔で迎えてくれたムーさんに、私も友人もほっとしていた。
おもしろい冗談をまじえながら愉快に車はウブドへと向かっていった。
ガイドブックに載っているところ、事前に打ち合わせした場所はもちろんのこと、穴場や時間の効率を考えたリスケなどほんとうに私たちのためを考えて提案してくれた。
そんな、気の利くお優しいムーさんの人柄は、ウブドに着く前からひしひしと感じていたが、その根端にあると思われるものが旅を進めるにつれわかってきた。
地元の方はもちろん、観光客も参拝する。
こちらはPura Tirta Empulというお寺。敷地内に入る前にお清めをする。ひとつひとつの水の出口には意味があるという。
私はこの水に入らなかったが、ヒンズー教の寺院の中に、仏教のお寺があり、そこでお清めをうけた。
一人で行ってもわからないため、ムーさんを見よう見まねで一緒にお清めをうけた。何度かお清めを受けたが、ムーさんはその度に清めてくれる人のもとにお金をおいていった。
「自分は今はおそなえができないからそのかわりにできることをしてるんだ」ということ。
バリではチャナンといって、朝と夜に小さな籠の中にお花や食べ物を玄関などにお供えする習慣がある。上の写真の手前の石の前にそなえているものが街中にあるのだ。
印象的だったのは、ムーさんはカーチャーターで観光客を案内しながらも寺院にはおそらくプライベートでもそうしているだろうという態度を示しているところ。
当たり前のことかもしれないし、ムーさんがそうなだけかもしれないし、ムーさんのお祈りに観光が妨げられたという思いは1ミリもない。ですが、日々の自然や神様に感謝している習慣が自然と現れていることに、宗教に疎い私が圧倒されただけの話なのかもしれない。
旅はどんどん進み、ジャコウネココーヒー農園、ウブドの街、世界的に有名なヨガスタジオでのヨガ体験など盛りだくさん。
終始愉快なムーさんだったが、コーヒー農園のカフェや車の中、お寺で、神さまについて、バリ人や文化について、日本人についてご自身が思ってることを話してくれた。
以下はムーさんの言葉をまとめたもの。
みんなの心の中に神さまはいる。でも考え方ひとつでそれは悪魔にもなりうる。
考え方を変えることが大事。
いいことをたくさんしても、結果がついてこないことがある。それはもう運命、自然にそうなることになっているのだからそれを受け入れていくのみ。
自然は先生。自然から生きる知恵、生活の知恵を学ぶことは大事。
バリの人はヒンズー教が多くて、神様について勉強する人もたくさんいる。
でも、財布が落ちてたら自分のものにしてしまう人もたくさんいる。
日本の人は神様について勉強している人は少ないけど、マナーを守ることで神様の教えに自然に沿うことができている。
テクノロジーに関しても、日本のテクノロジーは、火、水、風の力をしっかりとりいれていて、その資源や技術もある。
バリのスピリチュアルな考え方と日本の技術、どちらも意識的にとりいれればとてもすごい技術になると思う。
目に見えないけど、確かに存在するものはある。風や音のように肌や耳で感じられるもののように愛だって見えないけど感じることができる。
もちろん、全てのバリ人、日本人がこうだといっているわけではないことはムーさんもことわりをいれている。
私の祖母も神様や仏様、自然をとても大切にしている。
でも、少なくとも私を含め、私の周りにいる人々は宗教にうとく、自然には恩恵を求めてばかりな印象がある。
スピリチュアルは私も好きな分野だけど、うさんくさいという印象を抱く人も多いのではないだろうか。
ムーさんは、実はスパのインストラクターで、昔は日本でも講師として派遣されていたみたい。でも、バリはガツガツお金を稼げる場所ではないから、こどももいるし近々日本の工場に出稼ぎにくるのだとか。奥さんのお腹の中には妊娠まもない命がある。
ほんとうに心が豊かな人とはこういう人のことをいうのだと感じた。
7つの習慣でいう、原則中心で生きるって、こういう人のことをいうんじゃないだろうか。自然や普遍的な法則に従って生きていく人。
私は自分中心に生きてきて、これが当たり前だった。
狭い世界の中で狭いものの考え方で、それにうずまかれて生きてきた。
自分の恵みに気づかない。自分の力を生かせない。恵まれた環境を生かせない。
人と比べてばかりで自分の成長はおきざり。だから、人生がおもしろくなくなるんだ。
所詮、生まれたところにそのまますみついていたら、なんの不自由もなかったし、自分中心にだって生きることはできる。でも、この出逢いを通して、心豊かな人がとても自由で生き生きとしていて、こんな風に生きたいと思えた。
生まれる国で本当に人生は変わる。
稼げる国がある。そうでない国もある。
でも心のあり方は考え方ひとつ。生まれた場所にしばられずに自分で決めていくことができる。
ムーさんの豊かな心は、どうやって育まれたのか全ては知らないけれど、ヒンズー教やスピリチュアル、自然が大きく影響しているのはたしか。
感謝の気持ち、信じる気持ち、見返りを望まない気持ち、自然のあるがままにゆだねる気持ち。
バリではたくさんの自然に癒されたけど、私は果たして自然に優しいことをどれだけしてきただろうか。
近年は人間の生活がもたらした異常気象がまわりまわって人々に被害をもたらしている。
それでもなお、自然の悲鳴に耳を傾けず文句をいう。私もその一人になることがある。
そんなの自分勝手。
ムーさんはたくさんのことを教えてくれた。なにより態度で示してくれた。態度に人は動かされることを身をもって感じた。
ヒンズー教の教えにはこんな言葉がある。
心が変われば態度が変わる。
態度が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。
運命が変われば人生が変わる。
小さな心の変化が人生の変化につながっていく。
25年かかってやっとここまで気づくことができた。
気づいてからが勝負なんじゃない?
ムーさんが伝えようとしていたことはなんなのか。
このバリで触れた、自然や人々の温もり、忘れないよう。
ただの旅で終わらないよう、自分の原動力へ。
自然に優しく、人に優しく、自分に優しく。
見返りや損得を考えるのではなく、愛を与え続ける。そしてたくさんの愛に敏感になり、吸収する。
みなさんも機会があったらぜひバリへ。
心の神様に気がつくことができるかもしれません。
夢の原点④助産師を志した大学時代
こんにちは。
ここ最近のブログは、私が途上国の女性のためになろうと思ったきっかけから、助産師を志すまでの道のりを「夢の原点」というテーマで書いてきました。
今回はそのシリーズ最後の回「助産師を志した大学時代」。
高校を卒業し、 助産師になるために、看護師、助産師、保健師の免許が4年間でとれる大学へ進学しました。
女子校育ちで家庭でのルールも多かった私にとって、大学は自由な場所でした。
ここで、先に私が思い描いていた大学生活のbefore/afterを先に行ってしまいます。
Before(入学前)
・助産師の免許をとるために勉強を頑張る。(限られた人数しかとれないため)
・英語の勉強をする。英会話サークルとかに入る。
・国際協力のサークルに入る。
・旅行にいっぱい行く。とくに海外。
After(入学後の実際)
・助産師コースの選考から外れ、卒業後に1年余分に助産師学校に通った。
・国際交流サークルに入り、留学生とはたくさん友達になれた。
・学生時代に行った海外は卒業旅行のオーストラリアのみ
+ラグビー部のマネージャーになった
当初思い描いていた生活とはだいぶ違った大学生活になっていまいました。
なぜこんなにも違った生活を送ったのか。大きく2つの原因がありました。それは、
部活への所属
看護という学問との葛藤
まず、部活への所属。
冠婚葬祭以外は休めない。
それを知った上で入りました。
入った時点で、旅行や他のサークルへの参加はほぼできなくなることは覚悟していました。
それでもなぜ入ろうと思ったのか、その一番の理由は
「今しかできないことだから」
海外旅行は学生じゃなくてもいける。
途上国での活動は、私がライフワークとしてやろうとしていること。
これから私はその世界で生きる。
だったら、今しかできないことやってもいいんじゃないいか。
と、いう思いで入部。
二つ目の葛藤は看護という学問の葛藤。
もともと、看護業務をしたくて志したわけではありません。
2年目になりいよいよシーツ交換や清潔操作の演習が始まると、私は自分のやりたいことからかけ離れた学校の授業にとても身が入りませんでした。
おまけに部活も大変で身も心も時間もお金も吸い取られていきました。
周りの知り合いが、どんどん海外の大学に留学しているのをみると、羨ましくて仕方ありませんでした。
部活に入ったのも、
看護学を選んだのも自分。
その先に助産師の資格、途上国での活動があるのは頭ではわかっていても、心は焦ってばかりで地に足が着いていない状態。
最悪やめてもいい。
そんな思いで入学してきた。
やってみて、やっぱり違うかもしれない。
部活に入るんじゃなかった。
様々な思いが交錯する中、部活では先輩になり、学校では実習が始まりさらに忙しくなりました。
ここまでくると、今まで頑張ってきたのに辞めるほうが勿体ないという思いが強く、とにかく資格は取ろうと思いでした。
また、辞めたところで大学を再び受験するという気力もありませんでした。
実習が始まり、実際の患者さんの看護ケアを実践していくことになりました。
座学とは違い、目の前の患者さんがどうなることが目標で、どうすればその人らしい生活を送れるのか、ということを常に考えることが実習でした。
私にとって実習は、手応えを感じるものでした。
人を看るってこういうことなのか、
一人一人看護は違うし、なにか傷を抱えてもその人らしく生きることの手伝いができるってとっても素敵な仕事じゃないか。
そう思えるようになりました。
また、ある友人の一言。
ちゆきが海外でやりたいこともすごいなーって思う。
でも、看護師や助産師は人の命を救える仕事なんだよ。
誰でもできるものじゃないとおもうんだ。
路頭に迷って、自分で決めたことにいつまでもくよくよしていたしょうもない私にこんなに優しい言葉をかけてくれたのです。
正直、4年間で助産師を取ることも諦めていました。葛藤が苦しく、それから逃れるように目を背け十分な学習ができていませんでした。
看護学生三年目になりようやく看護の素晴らしさを実感し、
そして、看護学は人を看るという学問で、これは病気の人だけではなく、
健康な人含め全てに使えるスキルだと思いました。
加えて、部活ではチームで活動すること、自分の役割とチームへ影響、後輩の教育など沢山のスキルが身につきました。
結果、4年間で助産師の受験資格は取れませんでしたが、必死の思いで別の大学の助産学専攻科に入学することができました。
途上国で働こうと思い早13年、
助産師になろうと思い早6年。
夢を思い描いてから、沢山紆余曲折したけど、私はようやく描いていたビジョンのひとつ、助産師への一歩を踏み出したわけです。
以上、夢の原点シリーズシリーズ①〜④。
振り返ってみて、初心に戻ることができました。
特に大学時代は、葛藤が大きく、自分の心の声を聞かないようにしていたと思います。
今、助産師となりいよいよ青年海外協力隊という夢に近づいてきています。
助産師としてなにがやりたいのか。
いや、助産師抜きにして、私はなにをやりたいのか。
心の声に正直に生きよう。
今はそんな風に考えるようになりました。
別の記事で、助産学生時代のことも書こうと思います。
読んでくださった方々、ありがとうございました。
夢の原点③高2でタイボランティア
こんにちは。
前回と引き続き「夢の原点」というテーマで書いていきます。
今回は「夢の原点③高2でタイボランティア」
2度目の高校1年生。
カナダの留学から帰国し、私は進路を決めなければなりませんでした。
理系か、文系か。
途上国で女の人たちのためになりたい。世界平和に貢献したい。
これは変わらないのですが、じゃあ何をしよう。
どんな風に活動したいか、を考えた時に、
まずは、その地域に実際に生きる人たちと生活をして、考えていること、価値観を知らないとはじまらない。その人たちの本当のニーズを知りたい、と思いました。
カナダでの生活を経て、今まで思っていた考えや価値観は一緒に住んでみないと本当の意味で理解や受容はできないと思っていました。
国際連合などの大きな機関では実際にその地域に赴く活動は少ないし、短い期間ということを調べわかりました。
やっぱり、手に職つけて必要とされる身として、そこに住むのが一番いいと思いました。
女性のための専門職。
その時に浮かんだのが、小学校の先生がポロっと行った一言でした。
「助産師になって、女の人たちのためになったら?」
やっぱり、助産師か。
ですが、私は医療職はむいていないと思っていました。
人のお世話をするというイメージ、注射など細かい仕事が多い、命に関わるからミスは許されない。
入院経験もほぼない私は、看護師や助産師のお世話になったことはなく(自分が生まれた瞬間は覚えていません笑)、身近にそういう職業の人もいませんでした。(実は親戚に助産師がいたのを知るのはだいぶ先)
何より助産師になったところで、戦力になるためには日本での病院で数年は経験を積まなければならない。早く外にでたいという思いが強かったので、ジレンマが生じるにちがいないと思っていました。
それでも時は迫り、とりあえず文転はできるからという理由で理系を選択。
模試の志望校には、看護学部と国際関係学部や教養学部が並ぶという始末。
図書館に行って、職業にまつわる本を読み漁りましたがわからず。
母にもどうするのと迫られて、ついに泣き出しました。
「何をやりたいかなんて、今、わかんない!!!!」
自暴自棄。
そもそも途上国支援をしたいなんて、偽善なんじゃないか。(過去ブログ「新しい国際協力って?②」に詳細あり)
本当の、本当にやりたい?
そう思った時、ふと思ったのでした。
「私、途上国に行ったことない」
「一回行って、この目で見てみて確かめたい」
私の願いが届いたのか否か。
ある日教室の後ろの黒板に何気なく貼ってあたポスターが目にとまりました。
「高校生 タイボランティア・スタディツアー」
これだ…!!!
地元の社会福祉センターが主催しているものでした。
父は反対し、ハンコを押してくれませんでしたが、母が無理やり押してくれました。
タイの孤児院に1週間ほど泊まり子どもたちと生活をしたり、バンコクのスラム街を見学したりといったプログラムがありました。
選ばれた6人の男女がスタディツアーに参加することになりました。
子どもたちに文具を送ろう、という活動をそれぞれの学校ですることになりました。
そのため、全校生徒に向けて、文具の寄付をつのるために、スピーチをすることになりました。
どうやったら、身近なこととしてみんな受け取ってくれるだろう。
普段生活していて、途上国に興味がある人はあまり多くない印象を受けていたため、どうすれば問題意識を持ってくれるか、ということを考えてスピーチを作りました。
最悪行動に移らなくても、イメージだけでもしてほしい。
すべてのスピーチは覚えていませんが、冒頭はこのように始めました。
「みなさんは、もし鉛筆を持っていなかったらどうしますか?
隣の席の子に借りればいいでしょうか。
でも、もし隣の席の子も、その隣の隣の席の子も持っていなかったらどうしますか?教室の誰も鉛筆を持っていなかったらどうしますか。
勉強ができません。
私たちはものに恵まれている環境にいて、普通に勉強ができます。
でも世界には、物がなくてノートがとれない、勉強ができない私たちと同じくらいの年の人たちがいます。」
全校生徒のみんなが問題意識を持ってくれたかどうかはわかりませんが、6人の高校生の中で、私の学校からの文具の寄付が一番多く集まりました。キリスト教の理念を大事にする学校でもあったため、普段から「隣人を愛せよ」と言われており、そのような校風ももちろん関係はしていると思います。
そしていよいよ、タイへ。
都会とスラム街が隣接するバンコク。
傷を抱えながらも笑顔で生活する子どもたち。
信念を持ってボランティア活動をする人たち。
スタディツアーで学んだことは、改めて書きたいので今回は多くを書きませんが、ツアーを終えて、私は決めました。
やっぱり、困っている人たちのためになりたい。
不条理・理不尽なことに関心をもつだけじゃなくて、自分がそれを変えることに携わりたい。
日本ももちろんだけど、他国からの支援が必要な途上国でやりたい。
こうして、途上国を舞台に働きたいという夢を固めたのです。
問題は、助産師になるか否か。
帰国後、1日看護師体験をしました。
んーーーーー。
意外と面白いかも?
でも大変なんだろうな。
結局、大学は看護学部へ進学することを決意。
迷いはこの後もずっと続きますが、高校3年生の時点で自分なりに一応納得した決定点はこちら。
・途上国で母子保健分野は私がやりたい部分。助産師はそのエキスパート。
・国際関係学部など資格を取らない学部に進学したら、初めは一般企業に勤めるのがほとんど(母より)
・助産師の資格を持っていたら、外国で仕事をして帰ってきてもまたどこでも就職できるという自由さがある。お金をとりあえず稼ぐことができる。
・どうせ進学するなら資格も取れた方がいい。やっぱり後から助産師になりたいと思ったら学校に通わなきゃいけない。
・その点、国際問題とか政治・経済・開発・言語は学校に行かなくても自分で勉強できる。(弁護士とかになりたいなら別だけど私には絶対に無理だしなりたいとは思わない)
・やってみて、本当にムリ!と思ったら、最悪退学できる。(それでもいいと母は言ってくれた)
最悪、退学!
人生はいろいろ!
そんな勢いで、4年間で、看護師、助産師、保健師の免許が取れる大学に進学しました。(最短で助産師になりたかったため)
ここからが、大変だった!!!
問題の、看護学部時代は次回のブログで!
ではでは。
夢の原点②高1でカナダ留学
こんにちは。
今回は前回に引き続き夢の原点のテーマで書いていこうと思います。
夢の原点②高1でカナダ留学
高校1年生の時、カナダへ留学しました。
小さい頃から英語の教員免許を持つ母に英語を教えてもらったり、英会話スクールに通ったりしていたので、英語が大好きで、外国人と話したり、外国の文化にすごく興味がありました。
ちなみにジブリは日本語より先に英語でみはじめました。
小学校の時の卒業アルバムに書いた将来の夢は「国際交流」。
世界中の人たちと仲良くなりたい、英語を話したい。
それに重ねて前回のブログ「夢の原点①小4で途上国を知る」で書いたように、困っている人たちのために、差別を受ける女性のためになりたい、それを通して世界の平和に貢献したいという夢がありました。
そんな私も小学6年生となり、小学校生活最後の年になりました。
母がある日私に言いました。
「留学興味ある?」
中学受験をすることになるけど、高校生で留学に1年いける制度がある。
1年休学することになるから、学年が途中から一つ下になる。
でもやりたいならやってみてもいいよ。
という話でした。
本当に恵まれた環境で育ったなと思います。
地元の友人と離れてしまうのは寂しいな、女子校だから恋はお預けになるんだろうな、途中から学年が下がっても大丈夫なのかな…
その時は、その時だ!
留学に行ける可能性があるのならと思い、そちらの中高一貫校に進みました。
この制度は、学費が無料で1年間の留学に行かせてもえるというもののため、1年に1名しか派遣されません。必死で勉強しその資格を得ました。
留学の目的としては、
・英語をしゃべれるようになって帰ってくること
・異文化に触れて広い視野や価値観を体感してくること
・将来何をしたいかを考えてくること(これは母より)
カナダでの生活は、体の毛一本一本がざわつくほど刺激的でした。
大使館の子どもたちも通うような学校で、国籍は本当に様々。
肌の色、顔立ち、髪の毛、振る舞い、英語のアクセント、宗教、服装、食べるもの。
同じ英語圏、国なのに、こんなにも違う文化がごちゃまぜになって、でも調和がとれている。私の拙い英語を馬鹿にする人は誰もいなくて、見た目や信条が違うのは当たり前、嫌な顔一つせずに受け入れるのが当たり前の世界。
それでも学校外ではちょっと差別も受けました。
私はすごく偏った世界に生きていたんだ、と体感、実感。
同じ年に入学したイラン人の女の子(飛び級してて年下)と仲良くなりました。
二人とも英語圏に住むのはその時が初めてで、気兼ねなく下手くそな英語で喋りまくり、辛い時を共有しました。
ムスリムの人と知り合うのもその時が初めてでした。最初はグイグイ寄ってくるその距離感がつかめず、
「(心理的にも物理的にも)ちかい!!!!」
と、戸惑いを隠せませんでしたが笑
その子のお家にお呼ばれし、大きなパプリカにお米や野菜が詰まった料理(イランのおもてなし料理らしい)を食べたり。ペルシャ語で話す家族の会話を聞いたり。
お姉さんはいつもスカーフを顔に巻いているのに、友人は巻いていない、同じムスリムでも個人の考え方次第なんだなあと知りました。それでも、イランに帰ったらスカーフはしなきゃいけないのよ、と教えてくれました。
また、私はフランス語圏に住んでいたため、二つの言語が融合した街並みも新鮮でした。
辛く、一人でランチをトイレで食べたこともありましたが、
それは自分の殻の中に閉じこもってしまっただけで、誰のせいでもありません。
英語が上達しないと泣いた時は、ホストファミリーが励ましてくれました。
sweet 16の誕生日を自分で企画して、パジャマパーティーをしました。
ハロウィンで3kgのゴミ袋くらいの袋いっぱいのお菓子をご近所を回ってもらいました。
流行りのテイラー・スイフトの曲に合わせてミュージックビデオをホストシスターたちと撮りました。(音楽やダンスを多少なり知らないと同世代についていけない笑)
食べ物が美味しく15kg太りました。
友人とコテージで湖を泳ぎました。
クリスマスはトロントでホストファミリーの家族たちと過ごしました。
なぜかバドミントンで市の大会で3位になりました。
いいことも苦いこともぎゅうぎゅう詰めになった今にも溢れそうなキャンディーボックスのような1年間でした。
パンパンになった体にもかかわらず、ノースリーブに短パン、サングラスをして成田空港に登場し、「missed you!!!」といいながら母をハグした時の、母の動揺っぷりに逆に動揺したのを覚えています笑。母は最初私に気がついていませんでした笑。
当初の留学の目的はほぼ、果たしました。
しかし、将来何をしたいか、これだけは決まっていませんでした。
2度目の高校1年生。
理系か、文系かの選択を迫られていました。
ここから私が涙するほど悩んだ進路。
助産師になろう、とどうしてそこに繋がったのか。
続きは次回のブログで。
ちなみに、帰国した後、和食と部活でほぼ元どおりの体型に戻りました!
つくづく日本はおデブは住みにくい国だと思いました…
ではでは。